佐川さんの小説「随想」が出てきましたんで、お暇な方はどーぞ。
随想
「声ーーLes Voix」
佐川一政
『善意の人に平和あれ』
~まえがきにかえて~
堆く積もった麈芥の底に、数箱のダンボールがあった。
埃に噎せつつ、一つ一つを押し開いていくと、書簡類が顕れた。
大方、海外郵便である。
時を忘却し、其の世界にのめり込んでいった僕は、ふと頭を上げた時、夕闇に嵌った窓の彼方の空がみえた。
失われた時の流れが、茫然としてあった。
そして、胸を刺し貫く閃光を覚える。
自分の犯した大罪は、あの事件のみではない。これら、手紙の文面に満ちる人々の善意、好意をあまりに無残に、踏み躙った事もまた、取り返しのつかない罪であったと。
ダンボール箱より溢れ出る様々な声に、もう一度向きあおうと、筆を執った自分で有る。
第一章:武者小路実篤さん
メカニックな振動が、脳髄を引き廻した。
“僕は東京に居る”…
梅の花、桃の花、そして桜の花が次々に咲き乱れ、夜には沼から食用蛙の鳴き声がする…そんな田舎であった鎌倉の家より引越してきた僕は、都会の喧騒の内に放り出され、声にならぬ悲鳴を上げていた。
「これは二十一年前の話しである。
しかし自分は今でも忘れることができない。そして人間というものは無常なものであり、憐れなものであると思うのである。
死んだものは生きている者にも大なる力を持ち得るのだが、生きているものは死んだ者に対してあまりに無力なのを残念に思う。
今でも夏子の死があまりに気の毒に思えて仕方がないのである。しかし死せるものは生ける者の助けを要するには、あまりに無心で、神のごときものでありすぎるという信念が、自分にとってせめてもの慰めになるのである。
それよりほか仕方ないのではないか」
(「日本文学文集13」武者小路実篤 河出書房 昭和40年十月三日)
パタリと、其の時僕は本を閉じていた。
赤い背表紙に、泪の雫の跡ができた。
生暖かい布団の中のみ、自分の宇宙と感じていた自分は、毎夕学校を遁走するようにうちに帰り、本の世界に飛び込むのだ。
活字の躍動感のみが、僕を甦らせる。
「愛と死」を読んだ頃は、白樺派に溺れていた。
志賀直哉の『暗夜行路』の余韻を支って、「森」と題する生まれて初めての短篇の様なものを綴った。
文体から登場人物の設定まで、“志賀節”で恥入るばかりだ。
幼少時代より、僕の部屋には世界児童文学全集、日本児童文学全集が揃っていた(少年期に差掛ると、世界文学全集、日本文学全集が加わる)。
だからメルヒェンの世界には随分と遊んだ。
殊に「グリム童話」は大のお気に入り、暗記してしまう位に幾度も読み返していた。
日本の民話にも魅せられた。
山姥には一度会ってみたいと思い続けた。
未熟児で生まれ、虚弱児として育った僕は、長時間の読書に耐え得る程の体力も無い。
無理をすると、目の中に銀色の光の渦が巻く。偏頭痛の発作だ。
小説と言えるものを初めて読んだのは、『フランダースの犬』。小学校高学年にして、漸く体力のつき始めた頃である。
内容は殆ど憶えていない。ラスト・シーンのみ、強い光源体を目にした様に鮮やかに脳髄に残っている丈だ。
小学校の自分は、文学よりも歴史に興味が向いていた。子供用に書かれた日本史の本が送られて来るのを待ち望んでいた。
「蒙古来襲」より「明治維新」まで、絵巻物でも見るように、視覚的に捉えていた。
本の活字を追う時、いつも“絵”を頭の中に描く習慣は此の時についたのか。
中学に入った。
英語、国語、社会科に比べ、理数系の成績は惨めだった。小学校一年より引き算、割り算ができない僕は、数字を目にした丈で、気分が悪くなった。
ところが、国語の時間に異変が起きた。
夏目漱石の『草枕』を読まされる。
すっと立ち上がった僕は、さも自信あり気に口を開こうとして、目が点になった。
ルビまでふってあるのに、読めない!
“何だ? 此の漢字の羅列は…”
「もういいです。佐川君、座りなさい」
三角形のメガネを鼻先に掛けた若い女の先生は、僕を一顧だにせず其う言った。
悔しかった。
うちに帰り、両親に言った。
「ソーセキとか云うひとの本、ゼーンブ買って!」
忽ち全集が揃う。闇雲に読んでいく。
岩波書店刊行の第十六巻総てを読んだ。
そして読み終えた時、作家は此の世に漱石唯一人と云う心持ちがした。
尤も「文学論」など、大の苦手な数式まであるから、どれ程理解し得たか、甚だ怪しい。
只、『それから』『門』『行人』の、三部作と呼ばれる作品の群は、僕の幼い心の琴線にも触れる処があった。
「『あゝ動く。世の中が動く』と傍らの人に聞える様に云った。あの頭は電車の速力を以て回轉し出した。回轉するに従って火の様に焙つて來た。是で半日乗り續けたら焼き盡す事が出來るだろうと思つた。
忽ち赤郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるゝと回轉し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるゝと渦を捲いた。四つ角に、大きい眞赤な風船玉を賈つてるものがあつた。電車が急に曲がると、風船玉は追懸て來て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと續いた。仕舞いには世の中が眞赤になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるりゝと焔の息を吹いて回轉した。代助は自分の頭が焼け盡きる迄電車に乗つて行かうと決心した」
(「漱石全集」第四巻 昭和41年3月25日 岩波書店)
此のラストシーン程、僕の心深くインプットされた文章は無い。
赤。
パリ北西部に位置するブローニュの森に、禍々しい犯行の証拠を捨て去り、
「人殺しだ! 人殺しだ!!」
と叫ぶ声を蹴散らす様に疾走してバスに飛び乗ったあの時、やはり世界は真っ赤にみえた。
強烈な印象を残す作品、『それから』に深い感銘を受け、漱石に“感想文”を送ったのが、若き武者小路実篤さんだった。
『それから』は今風に言うなら、“不倫”の物語だ。其の重い罪の意識を引き摺って描かれるのが、『門』、『行人』である。
大正時代は、束の間のロマンティシズムの世界であったと云う。
ドイツに於ては、第一次世界大戦の爪痕生々しい大地に咲いた、一輪の草の光り輝く時代である。
「会議は踊る」と云う名画が残っている。
流刑に附されたナポレオン不在の間、オーストリアの宰相メッテルニッヒの主催で開かれた、“首脳会議”を背景に、ロシア皇帝と洗濯女の儚いラヴストーリーだ。
皇帝に見初められた女性が馬車で宮殿に向かう折に歌われる「たった一度だけ」と云う美しく切ない曲は、リリアン・ハーベイの美声と共に忘れ難い。
“うつつには美しすぎる”ーー此の歌詞には、今と云う時が、忽ち舞い落ちる木の葉の様なものである事を暗示しており、映画の中では、其の淡い夢は、ナポレオンの帰還に依って幕を閉じる。
そして此の映画がつくられた時(一九三一年)から程なく、ナチス台頭の足音がきこえてくる。
いわば、悲劇を予感しつつ心血を注いでつくり得た大人のメルヒェンであった。
武者小路実篤さんもまた、束の間の自由を謳歌した芸術家の一人であり、其のロマンの香りを一早く描いた漱石の『それから』は、武者さんの文学活動の根底にあったものかも知れない。
仙川、
此の地名を、河出書房の本の年譜で知った僕は、まるで知らない東京の街に飛び出した。
ひどい方向音痴の僕は、地下鉄の出口もまともに出られない。そんな僕が、如何にして小田急線より井の頭線に乗り換え、そして京王線に乗り得たのか、未だ判らない。
兎も角僕は、仙川なる駅名を目にするなり、電車から飛び降りてひたすら歩き出していた。
其の頃は、まだまだ草の丈の高い山奥で、しかし細い乍らもアスファルトで舗装された道だけはあった。
未だ20歳に満たぬ年齢、ひ弱な僕ではあったが、若かった。早足で進む向こうには、暁に“実篤先生”の大きなお顔がみえてくる様に思われる。
やがて視界は開け、生茂る草の先に幾らか平地がみえる。そして其の手前に、表札の様なものがあった。とてもぶ厚い木作りで、どうみても、「武者」とみえる。
夢の内を歩く気持ちで僕は直進した。
何建かの、立派なつくりの日本家屋が並んでいる。母屋は何処かと視線を疾らせていると、引き戸がみえた。
思い切って僕は其れを開いた。
こっくりさん、と言っては失礼か…頭髪の禿げ上がった、とても大きなお顔の御老人が、薄闇の中に茫然と立っておられる。
「あのー、む、むしゃのこうじさねあつさんでいらっしゃいますか…」
「うん、そうだけど」
「わ、わたくし、先日、お手紙を差し上げました、サ、サガワと申します…」
「…ふん? 手紙…そう、其れは迂闊だったね」
「は、はあ、すいません…」と何故か僕は謝っていた。
「ま、此こじゃなんだから中に入って」
大変に上品な御婦人があらわれる。奥様だろうか…年譜に依ると、相思相愛の“恋女房”とあった。確かに美しい方である。
玄関右手には、岸田劉生の、武者さんを描いた巨大な絵があった。
通された部屋は、書斎にはみえなかった。
机や椅子の無い代わりに、絵筆や絵の具が散乱していた。
武者さんは、もう文章は書いておられなかった。絵に親しまれ、あまたの色紙など生まれた。
お話も、絵の事が多かった。そして、殆んど其の事についてのお言葉は、記憶に無い。
只一言、鮮明に僕の心に残っているお言葉がある。
「二十八までに作品を認められなくっちゃ、文学の道で生きていくのは難しいよね」
その時僕は二十。“後、八年か”
文学のお話は其れだけ。新しき村のお話があった。
「東京でもね、毎月一回、神田の神保町の古本屋の二階で集いがあるから、よければいらっしゃい」
雑誌を取り上げられ、其の裏表紙に、小さな地図を書いて下さった。
くねくねと曲がった線に、文字は蜷局を巻いている。
雑誌を受け取る時、心做しか僕の手は震えていた。
家を忍び出した僕だった。
玄関の扉を開いた母の顔は、幾らか怒ってみえた。
「どこへ行ってたの!?」
「…どこだと思う?」
其う言い残して、僕は自室に入って行こうとした。
「誰よ!」母の声が追って来る。
「武者小路実篤さんに会ってきた」
母は言葉を失った。
神田の神保町には、古本屋が軒を連ねている。交差点の近くときいていた。
あちらこちら尋ね歩き、漸く目指す古本屋に到り着いた。
木製の、狭い階段をのぼっていくと、既に人の声と人いきれが、ムッと降り掛って来る。
躊躇しつつ片開きの襖を開くと、あまたの視線が、僕の顔一点に集中した。
目眩いを覚えた僕の目の端に、あの大きな顔の実篤さんの姿があった。
「やぁ!」
驚く程に大きな声で、手をすっと上げる。
僕のような若造を、よくぞ覚えて下さっていたと内心感動し、進められるがままに、実篤さんの近くに座った。
一人一人立ち上がって自己紹介のような事をしている。自己紹介と云っても殆どが仲間内だから、近況報告と云うべきか。
こんな風な事が大の苦手だった僕は、直ぐに逃げ出したい衝動に駆られた。
しかし、“武者小路実篤”の存在は大きかった。
其の丸く光る額が目の端に映る度、僕は動く事の叶わぬ自分を識った。
とうとう僕の番が来た。
何とか立ち上がり、口を開こうともがいていると、
「誰の紹介も無しに、紹介状も持たずに玄関先に立っていた。ハハハハ」
実篤さんはたわわな声で笑って言った。
僕は自分の非礼を恥じ入って頬を染めた。
“でも実篤さんだって、あの漱石大センセイに、いきなり手紙を送り付けたんじゃないか”と、しかし其う呟く自分も居た。
其の日の集いのテーマは、毛沢東批判に終始した。
実篤さんの書きものは、泣いたり怒ったりするシーンも多いけれど、全体的には、仄温かい感触がある。しかし実物の此の方は、舌鋒鋭く、情熱的な方だった。
実篤さんは、晩年のトルストイが行き着いた原始共産主義に大変影響を受けられたと云うが、政治には疎かった僕は、何故此れ程に、他国の指導者を論議なさるのか判らなかった。
今省みると、新しき村の概念もまた原始共産主義にあり、毛沢東は同様の仮面を被りつつ労働者階級を搾取する其の有様に、許容し難いものをお感じになられていたのだと思われる。
晩年の“武者小路実篤”は、芸術家と云うよりは思想家であった。
そして、人の生き方の難しさを実感し得たのも、此の時が初めてだった。
実篤さんの周囲で予定調和の団欒に浸る人達の多くは、切実なる実篤さんのユートピア思想に、どれ位思いを馳せていたのか、僕には判らない。
人が屯する処、其れが僕は苦手だった。
人間が個を個として互いに存在している限り、まったく同じ考えに取り憑かれると云う事はあり得ないと思い込んでいたのだ。ユングの“集団的無意識”など、其の頃の僕には想いも及ばなかった。
あれ位尊敬した武者小路実篤さんだったが、あの取り巻きが放つ臭いに耐えられず、僕は遁走した。
そして或る日、武者さんの訃報が入った。
母より手渡された新聞に、先生の大きな顔写真があった。
平気を装って其の新聞を受け取った僕だったが、自室の扉のノブに手を充てがった時、ひどい吐き気に襲われ、倒れ込んだ。
やはり実篤さんは、僕の心臓を掴んでいた…。
其こは青山葬儀場だった。
寒い頃であったと思う。
ひろい門から、ベンツやキャデラックが次々に入ってくる。
「ア、運転手の方はあちらでお待ちになって」 守衛の一人が僕に駆け寄って言った。
自分の姿を見直して、成程、と思った。
学生時代より着古した背広に安物のネクタイ。
黒塗りの高級車より降り立つ人々は、タキシードに黒の蝶ネクタイ姿だ。
僕のような年齢の人は誰一人として居ない。棺桶に片足突っ込んだ、と言っては失礼だが、蝋人形の如き御老体ばかり。
次第に自分が何故此んな場所に居るのか判らなくなってきた。
実篤さんは無宗教の方だった故か、黄の菊の花を一輪づつ献花していくのみ。弓なりになった人の列の角に、矍鑠とした御老人が一人立っている。
中川一政画伯だ。
葬儀委員長を務めておられた。
僕と向き合った時、決してハイヤーの運転手とは勘違いなされずに、御丁寧な挨拶をなされた。
此の方が、やがて自分の師となるとは、思いもよらなかった。
実篤さんの遺影の前に、骨壷がある。
“あの中に、先生の大きな顔が…?”
何か不思議な思いがする。
ヘンデルのミサ曲が流れていた。
生涯、“馬鹿一”を貫き通された実篤さんの心のひろがりを、其の曲は見事に描きぬいていた。
当時は何回かにわけて掲載してたと思うけど、どこが区切られていたのかもよくわからないので第一章を再掲載。
次は第二章なんだけど、第二章で終わりだったような気がする!
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