この小説はこれで完結…、というわけではないんですが、ここから先が蜜からねぇですよ~~!
第二章:福田恆存さん
其の頃、僕は脳髄に錐で穴を突かれる様な苦悶に喘いでいた。
年子の弟は慶応高校に入学し、やがては慶応大学生となる。
僕は慶応高校の入試に落ち、二流の公立高校に入っていた。
“何としても慶応に入学しなければならない”と云う強迫観念に捉われていた。
しかし、学校の成績は伸びず、教室では眠ってばかりいた。
朝方まで本を読んでいるからだ。
“嗚呼、雲雀が鳴き始めた。朝の光が、雨戸の隙間から漏れている…”
「産声を上げたばかりなんだけどね、学長さんがね、なかなかの人物なんだ。校風も自由だし、何も無理に慶応でなくていいんじゃない? 和光大学って名前だ」
家庭教師として来てくれてした慶応大学の教授の口から、或る日此んな言葉が零れ落ちた。
“え!? もう受験勉強する必要ない?”
信じ難い気持ちになり、それから真っ青な空がみえた。
其の先は無限だ。
しかし新設の和光大学は、学園紛争の巣窟であった。
ゲバ棒が舞い、ラウドスピーカーはがなりたてる。硝子窓は叩き壊され、教授車は姿を晦ます。
「自己批判要求」なる、不自然な言葉の朱貫きされた立て看板…其こは最早、学究の場とは言い難かった。
失望した僕は、第二外国語として選んだフランス語を徹底的に修めようと、専門学校に入学した。
そんな折、僕は演劇と出会った。
新劇と云われていた『民藝』と『雲』の会員となる。
滝沢修、宇野重吉、芥川比呂志などの名優が活躍していた時代だった。
学部は英文学で、シェイクスピアを研究の対象にしていた。
或る時、テレビで舞台劇の放映があった。
イギリスのナショナル・シアターだったと記憶している。
演目は「テムペスト」。
役者の口より紡ぎ出される言葉が、一つ一つ心に滲み込んでいった。泪が止まらなかった。
書店で、シェイクスピア関係の本を山と買い漁り、吸い尽くすように読んだ。
中野好夫氏の悲劇論は、頭の芯を麻痺させる力をもっていた。
そして、四大悲劇を通り超した世界ーーいわゆるロマンス劇と呼ばれる一群の劇作品の、殊に最晩年の作となる『テムペスト』は、未だ二十の僕の心と不思議にシンクロナイズし、到底昔の異国の作品とは思われなかった。
“芝居の、演出家になりたい!”
劇団「雲」の、サマースクールに参加した。
課題は『マクベス』。
演出家志望の僕も、役者としてのまず訓練が始まった。
舞台装置も衣装も無い。
シーパン、Tシャツのマクベス将軍が幾人もあらわれた。
僕の演じるシーンは、魔女との遭遇の場合。
「こら! マクベスは武将なんだから、そんなにチョロチョロすんな!!」と激が飛ぶ。
毎回ゲストが来て、小さな講演会が開かれた。
岡田真澄氏があらわれると、カメラを構える女子学生も少なくはなかった。プレイボーイで鳴らした氏だったが、無愛想な程の口べたで、世阿弥の『花伝書』を論じていた。
声優の久米明氏は、発音の練習。一人一人、自分の名を大声で発音する。
「サ・ガ・ワ・イ・ッ・セ・イ」
「ふーん、良い名だ。ア、ア、アと続いて、なかなか勢いがある」
最後のゲストが福田恆存さんであった。
氏の名訳で、あまたシェイクスピアのテキストを読み、端正でリズミカルな翻訳に深く感銘を受けていた。
「古典の現代化は可能なりや」と云う氏の小論文が、現代演劇協会の機関誌に掲載された事がある。
現在が保守系の知識人が幅をきかせているのとは対照的に、左翼系の言論人が活躍していた時代である。
福田さんの文章をごくゝ簡単に言って仕舞えば、古典であるからこそ現代に残っているのであって、其の“現代化”は純粋に言葉のレヴェルで矛盾している。だから奇を衒った演出を施すのはもっての他、と云うごくゝ当たり前の事である。
しかし、“進歩的”演劇人たちは一斉に此の論理に噛み付いた。
今も尚、背広姿のハムレット、サーカス紛いの『夏の夜の夢』などが上演され続けている。
福田恆存さんは、ずっと孤島だ。
其の時、痩せて小柄な紳士が、幾らか禿げた大きめの頭をゆっくりと揺らせながら教室に入って来た。黒い縁取りの眼鏡の下に、大きな瞳が震えていた。
僕は内心緊張しつつ、シェイクスピア劇の翻訳文、あるいは論文などを、其の姿に重ねていた。
英国の詩人、T・S・エリオットを訪ねた折の、福田さんの印象的なエッセーがある。
英国人の此の巨匠は、暖簾に腕押しの隠された横柄さで、福田さんに接したと云う。
何事にもストレートで実直な氏の戸惑い顔のみえるような正直さが僕の心をも打った。
そんな人が、演劇世界に踏み出そうとする若者を前に、やはり戸惑い勝ちな様子を目の当たりにした。
僕はその頃、シェイクスピアの卒業論文を綴っていた。対象とした作品は、やはり『テムペスト』。超自然の世界、自然の世界と云う二重の意識構造を、シェイクスピアの作品にみた僕は、次の福田さんの論評にとても魅せられていた。
即ちシェイクスピアの超自然の世界は、「超自然でありながら、超自然であることによって自然を表出するというシェイクスピア的機能を背負わされている」と云う一文である。(「シェイクスピア全集15 『あらし』 新潮社 昭和40年6月10日発行)
“宇宙感情”と云う際立って秀れた言葉で福田さんは、此の特徴を呼んでいた。
リアリズム文学しか読んでいなかった其の頃の僕にとっては、一個の啓示にも似ていた。
中学生の頃だったか、古いアメリカ映画の『夏の夜の夢』の幻想的な映像に陶然となった事があった。此の作品に描かれる不思議な調和感覚、いわば「自然感情」もまた、「宇宙感情」に通じるものがあると、福田さんにはっきりと指摘された時、僕は息を呑んだ。
オベロン、タイターニア、パックなど妖精の世界は、人間界を支配している。人間達の恋を翻弄するのは、妖精の悪戯であり、また人間を幸福な結末へと導くのも、妖精達の力である。
“此の世は舞台”と云う有名なセリフ(『お気に召すまま』)も、決して人間中心の発想ではない。
やがて『テムペスト』へと流れ込んでいく或る種の虚無思想に支えられた現実許容の精神の片鱗が窺える気がしてならなかった。
現実以外のものに、現実を其の一部として含む処の、現実以上に大いなるものに、現実以上に高きものに、より大きな価値を認め、此の立場から人生の現実を見直そうとする視点は、青春の入口で足踏みをしていた自分に、救いを与えてくれた。
人生の現実だけが人間の関わる唯一の場であるとして人生に執する態度を一度離れ、オランダの哲学者、スピノザの云う“永遠の相の下に”人生をみようとする姿勢は、現実の中で苦悶する僕にとって、都合のいい現実逃避と、紙一重でもあった。
脳生理学の著しく進歩した現在、現実とは「脳内現象」に過ぎず、僕達が知り得るものは所詮“仮想”に他ならぬ、そして「人間にとって大切なるものは、実は殆ど仮想の世界に属している」(『脳と仮想』 茂木健一郎 二〇〇四年九月二五日 新潮社)と言われるようになった。
現代の若者は、シェイクスピアの代わりに、科学によって、僕を類似した或る種の救いと昇華した感覚を抱くのかも知れない。
二十代の始めに、何故シェイクスピア最晩年の作品『テムペスト』に此れ程魅惑されてしまったのか、よく判らない。
只、「宇宙感情」と云う言葉が、当時の自分にとっては、如何に切実であったか、痛切に思われたかは想像に難しくはない。
サマースクールの教室で、眼前の小柄な紳士がシェイクスピアについて如何なお話をされたのか、不思議と覚えてはいない。しかし家に帰って直ぐ、僕は筆を執っていた。
「御芳書拝見しました。サマー・スクールに熱心な聴講生を得、甚だ嬉しく存じをります。しかし御質問大問題でそれにお答えするには喋るだけで何時間かかかり、原稿用紙数十枚を要するもの、とてもそれだけの暇はありません。ただ一言シェイクスピアの二重性についてはお考え正しいと存じます。
右取り急ぎ御返事まで 匆々 」
もの凄く達筆な文字であった。そして、斯くも著名な方よりお返事を頂くなど到底予想だにし得なかった僕は、文字通り舞い上がった。
只、福田恆存さんのお話がまるで思い出せないように、自分で書いた手紙の内容もまた、覚えていない。
何が“御質問大問題”だったかも判然としない。此のような賢人に首を捻せる様な大層な事を、若造の僕が問えたのだろうか…
以来、福田恆存さんの事で頭が一杯になった僕は、人生を全うするなら、氏の様に一片の外連も無い、真っ素ぐ大空を目指す竹の如き生き方を選びたいと、其ればかりを考えていた。
黒澤明の名作『七人の侍』に出演していた宮口精二に、福田さんのイメージを重ね合わせていた処がある。孤高とでも云うのか、情況に怯まない、烈風に立つ柏の木の強靭さだ。
誠実な人に儘あるように、しかし福田さんは、世渡り上手とは到底思われなかった。
杉村春子の居た文学座を、三島由紀夫、芥川比呂志と共に脱会し、劇団「雲」を創設するものの、やがて芥川も袂を分かち、「昴」と云う小さな劇団を創設した。
虚飾を交えぬ其の言動は、多くの人々には単に“曲者”と映った。其の様に福田さんを批判する人間こそ、嘘で固めた人生を送っているのだが、そんな虚構に真実の刃で刺し貫かれると、虚を突かれた如くに茫然となり、やがて意味も無く怒り出すのだ。
おそらく福田さんが、シェイクスピアの作品の中で最も愛したものは、『コリオレイナス』であろう。
氏が演出にあたった其の舞台には、哀しい程に福田氏自身の思いが溢れていた。
小池朝雄演じるローマの皇帝コリオレイナスは、“民衆”に媚び諂う事がどうしてもできない。当時の“進歩的文化人”と云われた人々は、こんな姿勢を、“驕慢”と呼んだ。
驕慢な人間はローマ時代にも、七十年代の日本にも、そして今も確実に存在している。
現代の御用評論家は、権力に媚び諂って保身の為に傲慢其のものと化した。ポピュリズムもマキャバリズムも同根である。己の心の真実より目を逸らし、欲望に隷属する卑しさに於て。福田恆存と云う人は、其の卑しさ、狡猾さを端より識らない人であった。
手元に、二通の福田さんからのお葉書がある。
「残暑お見舞い申し上げます。
京都産大の聴講といふお話規則上無理なばかりでなく、さうまでしなくても東京で、私の暇の折にいつかお目にかかりお話伺ひませう。 ではお元気で」
「拝復十月の二日から四日まで山口市へ講演に出かけ慣例の如く舞台稽古を見る事は出来ず、初日も二幕目に間に合ふ程度で帰京、終幕後のパーティには出席しての折あなたの方で名乗り出て下さい
取り急ぎ御返事まで 匆々
九月十七日
福田恆存 」
福田さんの事を、他人を寄せつけぬ曲者と思う人は、右の文面をよく読んで頂きたい。
殆ど見ず知らずの、ストーカーに限りなく近い一青年に、いちいち此の様な葉書を綴る福田さんの行為を、どの様に捉えるのか。
今の知識人では決して持ち得ないやさしさと心遣いをお持ちだった事を、此の二通のお葉書は雄弁に物語っていよう。
無論お叱りも幾度か頂いた。
大学院に通っていた関西から東京に、福田さんにお会いしに赴いた時である。
芝居が終わって、ロビーに集うあまたの人々の内に福田さんのお姿を拝見し、おずおずと、しかし早口に、シェイクスピアの疑問点を多々述べたてると、福田さんはいささかムッとしたお顔で、
「其の様なこと、どうして私に確認を求めるのですか? 御自分が其うだとお思いなら、論文に其の儘書けばいい事じゃないですか」
虚を突かれ、心臓が破裂しそうになった。
“福田さんとお話しがしたい一念で、シェイクスピアを出しに使っただけだった… ”
其こは坂を登り切ったコンクリートの白い建物の二階だった。
福田さんの特別な計らいで、御自身の演出なさっておられた『テムペスト』の稽古をみに行かせて頂いた。
出掛けに父が、「此れ持ってけ」と高級ウィスキーを僕に手渡した。
早足で坂を駆け上がっていかれる福田さんに漸く追い付き、
「此れ、父からです」とウィスキーの壜を差し出そうとすると、
「そんなもの要りません!」と、明らかに不快感をお示しになってソッポを向かれた。
僕はふたたび怯した。
舞台稽古をみるのは初めてであった。
キラ星のように、著名な役者さん達があちこちに佇み、雑談を交わしている。
福田さんに受け取って頂けなかったウィスキーを入口の隅に置いた。
小池朝雄氏は、片隅にコチコチとなって座る僕に、柔和な笑みを浮かべ、丁寧な挨拶をする。若き橋爪功氏は、エイリアンでも目にした様に、僕を凝視した。痩せ細った奇怪な顔つき、体形をした僕は、こんな風に他人からみられて育ってきたが、橋爪氏の眼差しには外観に留まらず、僕の本質を穿つ鋭利さがあり、縮み上がった。
稽古場の奥、体格のいい役者達の中に埋まる様に、福田さんはお座りになった。
役者の雄叫びを除き、実に静かな稽古であった。恰かも役者の様に通りのいい美声が、抑制をきかせて福田さんの口より発せられると、ピーンと糸を張った如く、室内の空気が硬化する。
其の時、橋爪氏が何か言った。演出にクレイムをつけたのだ。一瞬福田さんの頭が凝結したかのように動かなくなり、暫くして、両手で頭を抱え込み、前のめりになった。
ここから先はいつか見つかったらということで!
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